2015年9月13日日曜日

ロンドン 大英博物館 / ラムセス2世像(British Museum / Statue of Ramesses Ⅱ)


アガサ・クリスティー作「エジプト墳墓の謎(The Adventure of the Egyptian Tomb)」(→「ポワロ登場(Poirot investigates)」(1925年)に収録)では、考古学者サー・ジョン・ウィラード(Sir John Willard)の未亡人であるレディー・ウィラード(Lady Willard)からエルキュール・ポワロは事件の相談を受ける。


レディー・ウィラードによると、亡き夫えあるウィラード卿は、エジプトでファラオ(王)のメン・ハー・ラ(Men-her-ra)の墳墓を発掘調査中、王の墳墓を掘り起こした直後に、心臓麻痺で死亡したと言う。また、発掘隊の一員だったアメリカ人富豪のブライブナー氏(Mr Bleibner)も、敗血症(blood poisoning)が原因で、ウィラード卿の後を追うことになる。更に、その数日後、ブライブナー氏の甥であるルパート・ブライブナー(Rupert Bleibner)が、ニューヨークにおいてピストル自殺を遂げる。ルパートは、伯父のブライブナー氏に金の無心をするために、エジプトの墳墓を訪れたばかりであった。これらの連続する3件の死は、墳墓を暴かれたメン・ハー・ラの呪いによるものではないかという噂が一気に広まる。


レディー・ウィラードの息子であるガイ・ウィラード(Guy Willard)が、父親ウィラード卿の跡を継いで、エジプトへ向かい、発掘現場の指揮を執ることになった。彼女としても、3件の死が相次いだため、単なる偶然で済ますことができず、不幸が次に自分の息子に降りかかるのではないかと心配し、ポワロに助けを求めてきたのである。そこで、ポワロはヘイスティングス大尉を連れて、事件の捜査のため、早速エジプトへと向かうのであった。


英国のTV会社ITV1が放映したポワロシリーズ「Agatha Christie's Poirot」の「エジプト墳墓の謎」(1993年)の回において、息子のガイ・ウィラードをメン・ハー・ラの呪いから守ってほしいというレディー・ウィラードの依頼を受けて、ポワロはヘイスティングス大尉と一緒にエジプトへ行く準備を始める。エジプトへと赴く前に、ポワロは大英博物館を訪れる。そして、大英博物館の展示室で、ポワロはラムセス2世の胸像の前に立ち、黙って胸像を見つめるのであった。

ラムセス2世の胸像が出土された
ラムセス2世葬祭殿(ラムセウム)

「ラムセス2世の胸像 ”若きメムノン”(Colossal bust of Ramesses Ⅱ the 'Younger Memnon')」と呼ばれる巨像は、大英博物館内にあるエジプトコレクションの展示室ルーム4の中でも、最も目を引く像である。
ラムセス2世は古代エジプト第19王朝のファラオで、当時ファラオであった父セティ1世(Seti Ⅰ)の次男として出生して、父の跡を継いで即位し、紀元前1279年から紀元前1213年までの約67年間(年代については諸説あり)にわたって、エジプトを統治した。彼の治世中、エジプトはリビア、ヌビアやパレスチナ等へその勢力を拡大し、繁栄を享受した。一方、彼はアブ・シンベル神殿やラムセス2世葬祭殿(ラムセウム)(Mortuary Temple of Ramesses Ⅱ- Ramesseum)の建設、また、カルナック神殿やルクソール神殿等の増築も手がけ、記念碑を含む多くの建造物を残している。

ナポレオン1世のエジプト遠征軍が掘り出そうとした際に
つけられたと思われる穴が胸像の右胸のところに見える

ラムセス2世の胸像は、7トンを超える重さの花崗岩で、紀元前1250年頃のものと考えられている。
胸像は、英国人女性と結婚したイタリア人ジョヴァンニ・バティスタ・ベルツォーニ(Giovanni Battista Belzoni:1778年ー1823年)によって、1816年にテーベ(Thebes)のナイル河西岸にあるラムセス2世葬祭殿(ラムセウム)で出土され、1818年に英国へ運ばれてきた。ベルツォーニによると、この胸像を運び出すのは、技術的にも、そして、政治的にも困難を極めた、とのこと。

また、胸像の右胸のところにある穴は、ナポレオン・ボナパルト / ナポレオン1世(Napoleon Bonaparte / Napoleon Ⅰ:1769年ー1821年)によるエジプト遠征(1798年ー1801年)時、遠征軍によって胸像を掘り出そうとした際(この時は、不成功に終わった)につけられたと言われている。

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